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![]() 【写真】 沖縄戦でたおれた死者たちの「語り相手」にと、知恵遅れの子どもたちが造った小さな土像。摩文仁界わいの路傍や野辺や海辺で、静かに時を送り「土」に還る。身体障害者と写真家平敷兼七の優しさが響き合った1枚。( 平敷兼七写真集 『 山羊の肺 』( 影書房 ) から。 ■10月3日(土) 那覇 曇り/関東 小雨 太平洋上で北上の気配をみせる2つの台風から逃げるようにして那覇を離れる。進路いかんによっては何日も島に足止めになるので…。 まる1ヶ月の沖縄滞在だったが、今回はいつになく多忙で充実した日々を送った。政権交代で希望の見え始めた辺野古には笑顔があったし、若いミュージシャンたちの「反基地コンサート」会場にもいい風が吹いていた。 佐喜眞美術館の「沖縄 24人の作家たち展」や、画廊沖縄 ( 南風原 ) で 「 琉球処分400年 」 企画の一環として開催された大浦信行の天皇をモチーフとした作品展も見応えがあった。 琉球新報に連載中の「フラッシュバック」の締切りが毎週やってくることも、生活に適度な緊張感をもたらしている。写真の時代背景調べやキャプションに誤りなきを期すため、県立図書館や公文書館にも度々足を運んだ。 昔のドキュメンタリーを見ながら〈沖縄〉を考えるビデオ&トーク「森口カフェ in 那覇」もスタートし、2回実施した。 真夏日つづきの今年の夏の暑さは身にこたえたが、乾いた風がシロガシラの鳴き声の透明感を高め、疲れた身体を慰めた。 きのう2日付けの「フラッシュバック」で、1963年に伊平屋島の浜で撮った「死の里帰り」を紹介。海を隔てて暮らす人々の「別れ」の怖さに触れた。 島の別れに「さよなら」の言葉はない。島と島の間に横たわる時間と空間が、「生き別れ」につながることは少なくはない。時代が変わってもその距離は決して縮まることはない。 島人はそれを知るがゆえに、別れの怖さを知っている。 夕方、家に帰り着くなり、沖縄から訃報が舞い込んだ。まるで僕を追うように…。 平敷兼七が死んだという。嘘だろう。ついこの間、10日前に会ったばかりではないか。肺炎で、という。僕が沖縄島を離れようとしていたまさにその時、彼は61歳の命を閉じようとしていたのだ。 海を隔てた別れの怖さ――。 「遅咲き」の写真家だった。あのどろどろとした、沖縄の影を写したような写真群を展示した 『 山羊の肺 1968―2005 』( 南風原文化センター ) で、世間は彼の仕事を見直すことになり、この5月、東京での作品展を機に第33回伊奈信男賞に輝いたばかりだった。 昭和天皇ヒロヒトが死んだ日を、沖縄の写真家たちはどのように表現したか、を描いたドキュメンタリー『 昭和が終わった日 』( 1989年2月、「 NNNドキュメント89 」 で放送 ) で、僕は平敷を追った。あの日彼は宮古島の公園造成地で働いていた。 《 普段の日と何も変わらない仲間たちの姿を写すことが、自分にとって一番正直なんですよ 》 彼はそう言いながら、いつものように働く仲間にカメラを向けていた。 彼が撮るのは市井の人々の日常、沖縄社会の影―。 写真を志した40年前、沖縄は政治の季節。多くのカメラマンの関心は反基地闘争や復帰運動にあったが、平敷がカメラを向けたのはそうした「大文字の沖縄」ではなかった。僻地や離島や、性をひさいで生きる女性など、自分たちののごく周囲で大声も出さずに生きる人間たち…。 彼が遺した 『 山羊の肺 』 のページを、ゆっくりとゆっくりとめくる。1コマ1コマの写真に写し込まれた、人間たちの健康的な表貌の向こうで、平敷兼七がほほ笑んでいる。 仲里効は近著『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』(未来社)で、平敷の仕事を評価したばかりでもある。 なぜ、そんなに死に急いだのか。君にはまだ、ニライカナイは似合わない。居心地だって悪いだろう。 だれにも優しかった君よ。 by Moriguchi_Katsu | 2009-10-09 08:40
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