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![]() ■基地城下町 撮影日 1957年8月 撮影地 久志村(現名護市辺野古) 米海兵隊の進駐による「ドルの雨」を当て込み、人口600人の辺野古の村で特飲街づくりが急ピッチで進んでいた。いまを去る54年前のこと。「Bar」や「Club」などと触れ込んではいたが、どの店も木造トタン葺きの粗末な建物。雨が降ると通りの道はぬかるむ。それでも明るいうちから一夜の快楽を求めて米兵たちがやってきて、「鳥も通わぬ枯れ木島」やんばるの寒村は好景気にわいた。 しかし、ベトナム戦争が終わり、ドル暴落が始まると客足は一気に落ち込み、たちまちにして閑古鳥が鳴く日々に…。 時は移ろい「普天間代替基地」の予定地として、日米間のホットスポットになって久しい現代の辺野古。日米両政府は、沖縄中の強い反対を無視して新基地建設を目指す。その見返りは「地域振興」という名の「円の雨」。基地が地域振興に役立つなら日本一の貧乏県の沖縄は、とおの昔に「日本一豊かな県」になっていたはずなのだが…。 (写真は、未来社刊 沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」第7巻 森口豁写真集 『さよならアメリカ』 所収) # by Moriguchi_Katsu | 2011-10-18 09:18
![]() ■戦場の村 撮影日 1983年6月 撮影地 金武町 もしも、自分の家の前の道路をこのような戦車が走り回ったら…? おそらく、大多数の国民はそんなことは考えたことがないに違いない。しかし、沖縄の人たち、とりわけ海兵隊の基地や訓練場の多い恩納村以北の住民にとっては、このようなことは決してめずらしいことではない。「ごくあたりまえの風景」なのだ。 「やんばる」の名で知られる沖縄北部の山中には、米軍の訓練場や演習場が数多くあり、武装兵や戦車などがそうした訓練場に出入りする度に、キャタピラの音を響かせ、迷彩をほどこした兵士たちが号令をかけながら一般の国道や町や村の中の県道を走るのだ。 もしも住民に何かあったら…と、自治体の首長らはそのつど国に抗議するが、政府の回答は「日米地位協定にうたわれた『基地間移動』であり問題にはあたらない」いうばかり。国は口を開けば「沖縄の基地負担軽減」をいうが、その「基地負担」のにはこのようなものもあるのだ。 あなたの家の前を米兵が列をつくって行軍したり、何台もの戦車が走り回わるようなことになったら、あなたは黙っていられますか? (写真は未来社刊、森口豁写真集『さよならアメリカ』より) # by Moriguchi_Katsu | 2011-10-07 12:09
![]() ■久高島の八月ウマチー 撮影日 1963年8月 撮影地 南城市(旧知念村) 久高島 久高島では女性の神役であるノロたちが島びとたちの暮らしと神事を司る。これは豊作を神に感謝する八月ウマチー(まつり)での1ショット。 神聖で厳粛な神ンチュたちの頭上を米軍機が爆音をまき散らしてよぎる。 久高島といえば12年に1度の午年に行なわれる「イザイホウ」で知られるが、日本復帰を境に進んだ過疎化で人口が急減。1978年を最後に姿を消した。僕がそのイザイホウを取材したのはそれより12年前の66年。その一部終始は後に平凡社の『太陽』で発表したが、今回未來社の「琉球烈像」第7巻『さよならアメリカ』にも未発表作3点を収録したのでご覧頂ければ幸いだ。 (写真=未來社刊、森口豁写真集『さよならアメリカ』より) ![]() ■野良帰りの農夫 撮影日 1964年5月 撮影地 久米島・旧具志川村 那覇の西方100キロ、東シナ海の黒潮洗う久米島は、古くから久米島紬の産地として知られる。起伏豊かで風光明媚な自然環境の美しさはは、まるで絵はがきを見るようだ。あまり離島には興味を寄せない沖縄の人でさえ「一度は行ってみたい所」として真っ先にここを挙げる。 そんなこの島も、あの戦争時には地獄をみた。66年前の1945年6月から8月にかけて、婦女子を含む7世帯20人もの住民が島に駐屯する日本軍守備隊により惨殺されたのだ。世にいう住民虐殺である。しかもその半数の10人は沖縄戦が終わり、日本の敗戦を告げる「玉音放送」後の殺害であった。(この「天皇の軍隊」による一連の出来事は拙書『沖縄 近い昔の旅・非武の島の記憶』=凱風社刊に詳しく書いたのでぜひ読んでほしい。沖縄の人々がなぜ、口をきわめて反戦・反基地を言い続けるのかが理解頂けると思う。同書はすでに絶版になりましたが、amazonから古書が入手可能です)。 ちなみに「天皇の軍隊」に殺された人は、区長や警防団員、郵便局長らとその家族で、その中にはわずか1歳の乳飲み子や10歳以下の幼児が6人もいる。日本軍は殺害の理由を「スバイ」というが、この子たちに何の罪があるのだろう。まさに狂喜の沙汰である。 (写真=未來社刊「沖縄写真家シリーズ 琉球烈像」第7巻『森口豁写真集 さよならアメリカ』 より」) # by Moriguchi_Katsu | 2011-09-05 13:52
![]() ■孤島の老女 撮影日 1982年3月 撮影地 八重山諸島 鳩間島 沖縄の日本復帰から10年経った1982年の沖縄。離島の悩みは飲料水や電気、医療面。山も川もない小さな島共通のハンディだ。 人々は、日本に復帰すれば社会基盤の整備が進み、人並みの暮らしができると信じていたが、鳩間島に水道 (西表島からの海底送水) が敷かれたのは「復帰」11年後の1983年。電気にいたっては部落発電で、点灯時間は朝昼夜の1日7〜8時間。夜10時をすぎると石油ランプに頼る日々だった。 白髪の美しいこの老女は当時89歳の西原モウシさん。明治の末近くまで続いた人頭税時代を知る生き証人だ。日本復帰を境に過疎化に拍車がかかり、かつては600人もいた住民は50人弱に。老いた老女の脳裏に去来するものは…。 (森口豁写真集『さよならアメリカ』未來社刊=沖縄写真家シリーズ「琉球烈像」第7巻より) # by Moriguchi_Katsu | 2011-08-29 09:50
![]() ![]() 【写真】 ㊤「裏石垣開拓移民」 1950年代半ばから急ピッチで進んだ米軍の土地接収で土地を追われた農民らは、生活の場を求めてつぎつぎに石垣島に移住。飢えや風土病と闘いながら未開の地に鍬を振るった。日本本土が経済成長に向けひた走り始めた頃だった。写真の一家も、裏石垣と呼ばれる石垣島裏地区に「入植」、そのような苦労を重ねた家族だ。(未來社刊 森口豁写真集『さよならアメリカ』より) ㊦ 高橋真樹さんの新著『観光コースでないハワイ』 ■6月22日(水) 大阪 晴れ 大阪・大正区で沖縄の復権/人間回復のために地道に活動している「関西沖縄文庫」の金城馨さんたちが企画した「6・23 慰霊の日を考える」講演のため、新幹線で大阪へ。 ヤマト世になってもなくならない沖縄差別と基地押しつけにどう向き合っていけばよいのか―。馨さんたちが打ち出した集会のテーマは 《1945±66 琉球処分を終わらせるために》 1945年の沖縄戦を起点にすると、その66年前に明治政府による琉球処分/廃藩置県があり、66年後に「いま/2011年」がある。軍事基地と化した現状を変えるには、その節目の年の「沖縄のいま」をきちんと意識すること、そしてあの地獄の沖縄戦と真正面から向き合うことが大事だ。金城さんはその心をこう語る。 66年という長い時間をかけて一回りしてきた「琉球処分」。一貫して変わらない沖縄差別に、ヤマト対沖縄の途方もない疲労感を覚える。果たして混沌のるつぼに生きる関西のウチナーンチュとどのような「いま」を共有できるか、期待半分、怖さ半分の大正区入りだった。 テキスト映像はここでも『ひめゆり戦史』と『空白の戦史』。ヤマトは沖縄に対して何をしてきたか、を考えるにはこの2作品は格好の教材だ。そして「アメリカ世」をとらえた30点の展示写真。ウィークデーというのに早い時間から開場を待ち切れない人々が続々と詰めかけ、定刻の7時には200人の熱気で小ホールが埋まった。郷里を離れて生きる在阪のウチナーンチュには、沖縄で生きるウチナーンチュよりも濃密な血が流れているように思うのは僕だけであろうか。互いに熱いものの交叉する催しであった。 ■6月24日(金) 関東 晴れ きのうに続き猛暑。朝8時には都心の気温が28℃を超えた。その暑さの中を法政大沖文研の連続講座「沖縄を考える」へ。この講座、僕の出番もきょうまで。20歳前後の学生ら700人を相手にビデオ&トーク。猛暑に加えこのところのオーバーワークがたたり体調は最悪。結果的には語り尽くせず、不十分な講義になった。能力の限界もあらためて痛感。 ■6月25日(土) 曇り 友人のライター高橋真樹さんから新著『観光コースでないハワイ 「楽園」のもうひとつの姿』(高文研)の恵贈を受ける。高橋さんは昨年までピースボートのスタッフとして地球上の60か国を歩いた経験を活かそうとフリーのノンフィクションライターに転じた。 ハワイは本当に「南国の楽園」なのだろうか―。ワイキキビーチと目と鼻の先の浜に夕陽を受けて建ち並ぶホームレスのテントに衝撃をうけた著者。調べてみるとその多くは本来なら島の主である先住民の人たちだとわかる。 白い砂浜に建ち並ぶリゾートホテル、マリンスポーツにハネムーンのメッカ…。こうした光景は果たして先住民にはどのように映るのか。著者は島の奥へ、深みへと足を踏み入れ、真の理解と共生の可能性を飽かずにまさぐる。 ハワイがアメリカに侵略されたのは1890年代。そのなりわいもその後の姿も嶋津の琉球侵略によく似ていて、「沖縄」のこれからを考える上でも示唆に富むことの多い本だ。かつて高橋さんの依頼で「ピースボート」の水先案内人としてハワイの地を初めて踏んだときに感じた、高橋さんの不条理を許さない人柄、とりわけ弱者への優しいまなざしが本書の端々にあふれる。肩の力を抜いて、楽しく読めるリポートでもある。 ■6月26日(日) 曇り 東京・六本木の俳優座劇場で、劇団文化座の第133回公演「骸骨ビルの庭」(宮本輝原作、小松幹生脚本、黒岩亮演出)を観る。 # by Moriguchi_Katsu | 2011-06-26 09:50
![]() ■6月10日(金) 関東 曇り NHKニュースの関東ローカル「首都圏ネット」(午後6時10〜)に「関東各地のきょうの放射線量」というコーナーがある。関東1都6県の屋外でその日に観測された放射線量の数値を地図の上に落とし、キャスターが読み上げていく。「千葉県市原市は0・044マイクロシーベルト」「東京新宿区0・052マイクロシーベルト」「神奈川県川崎市は0・033シーベルト」といった具合だ。それぞれの数値の下段には原発事故発生前の平均値が記されている。原発に関する国の発表には強い不信感を抱きながらも、家にいる限りは毎日この「きょうの放射線量」画面を凝視する習慣が身についてしまった。理由は自分の住んでいる千葉県北東部が、周辺地区にくらべて抜きん出て高い値を示すことが多いからだ。 福島原発から千葉県北西部までの直線距離は200キロ余り。放射能まみれの北東の風がたちどころに到達するのは自明の理。原発建屋爆発時もその2〜3日後には、早々と松戸市の浄水場の水から通常値を上回る放射性物質が検出された。 以来、雨の日の外出は控える、むやみに土や植物に触れない、孫娘には口を酸っぱくして「雨には絶対ぬれないよう」注意する…日常だ。 思えば僕らは何と言う「非日常」のなかに置かれているのだろう。非日常が続くと、それは間違いなく「日常」になる。それが怖い。日常に慣らされていくことが…。 ■6月16日(木) 曇り 東京・恵比寿の都写真美術館でチェコの写真家ジョセフ・クーデルカの『プラハ 1968』と、内外の写真家が撮った「戦争と子ども」をを一堂に集めた『こどもの情景/都写真美術館コレクション展』を観る。 チェコスロバキアの「ソ連離れ」を恐れたワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻に、素手で立ち向かう民衆の怒りと悲しみをとらえたクーデルカの170点に上る写真に圧倒される。 夜7時、豊島区駒込の「琉球センター・どぅたっち」で開かれた「慰霊の日」を考える小さな集いへ。6月は沖縄戦戦没者の慰霊月。どぅたっちの島袋マカト陽子さんは、戦争と基地問題を考えるための教材として僕が作ったドキュメンタリー『ひめゆり戦史・いま問う国家と教育』『沖縄住民虐殺35年』の2本の上映を企画した。雨の中「沖縄」と「この国のいま」を憂う人たちの真剣なまなざしがスクリーン集まった。小さな集まりだが「沖縄を語る一人の会」としては黙視できない。「沖縄」を知りたい、知ってもらいたい人がいるとわかれば、頼まれなくとも出かけて行かざるをえない。 ■6月17日(金) 終日小雨 法政大沖縄文化研究所の連続講座『沖縄を考える』。今週と来週は僕の出番。慰霊の日を挟んでの講義ゆえ、テーマはもちろん「沖縄戦」。いつもの作品をテキストにしての「森口節」だ。聴衆は700人。8割が学生。会場入口ロビーでは「アメリカ世」の写真30点を展示、視覚に訴える講座にした。 4月から始まった法大沖文研の今年の連続講座、これまでの講師は琉球大名誉教授の比屋根照夫さん、批評家の仲里効さん、詩人でジャーナリストの新川明さんや川満信一さんなど、いずれ劣らぬ論客ばかり。内容も沖縄の近現代史から詩歌や芸能、文化まで多彩だ。理論家ではない僕にできることは映像を見せ、感性をたぎらせて自分が沖縄から学んだこと、体験したことを語ることだけ…。 ■6月18日(土) 曇り のち雨 午後、法政大市ヶ谷キャンパスで開かれた第128回公開講演会で、沖縄タイムス写真部の大城弘明さんと共に「沖縄トーク」。 「森口ドキュメンタリーを集中的に、より多く見たい」という要望に応え、自作28本中、つぎの5作品(カッコ内は放送年)を披露した。 『乾いた沖縄』(1963年)『沖縄の十八歳』(1966年)『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)『かたき土を破りて』(1971年)『激突死』(1978年)。いずれも僕がカメラマンもしくはディレクター(ときには兼務)として日本テレビ在職中に作ったもの。 出来不出来はともかくとして、いずれも格段の思い入れのある作品。なかでも冒頭に上映した『乾いた沖縄』は格別。上映後の感想もやはりこの作品に対するものが多かった。聴衆は200人。ほとんどが社会人で、沖縄時代の知己やなつかしい同業者の姿も…。会場入口では未來社と高文研が出店、『さよならアメリカ』と『米軍政下の沖縄 アメリカ世の記憶』の頒布もしたが、はたして売れ行きはどうだったのだろうか。 沖縄慰霊月、自作を抱えての旅はまだ続く。来週水曜日(22日)は、大阪沖縄会館で開かれる「6・23慰霊の日を考える」でビデオ&トーク」。関西沖縄文庫の金城馨さんらの企画で、ここでの上映作品も『ひめゆり戦史』と『空白の戦史』。同時に「アメリカ世」の写真展も。そんなこんなで次回の沖縄入りは24日の法政大での講座を終えた後、今月末になりそう。「慰霊の日」に沖縄を外したのは去年につづき2年連続。今年もまた、遠く離れた関東から死者を悼む香を焚くことに…。 ![]() ![]() 【写真】 さいたま市浦和の市民サポートセンターで開催された森口豁写真展『変わらぬ基地 続く苦悩・ジャーナリスト近田洋一が生きた時代』。最終日のギャラリートークには、会場からあふれるほどの来場者が…。 冒頭、見出し代わりにさせて頂いた句は、沖縄の歌人、喜納勝代さんの詠んだ歌。 沖縄戦の死者たちを悼む沖縄忌が今年もまためぐって来る。6月23日の慰霊の日を前に、死者たちが起き上がって僕たちを待っている。 だが、武力放棄を誓った「平和憲法の国・日本」は、いまや世界有数の軍事大国。加えて強大な米軍が我が物顔で居座りつづける「軍事的植民地」だ。 全国各地の海岸線には「平和利用」という名の原発が建ち並ぶ。日を追って明らかになるガレキと化した福島第2原発の惨状と、各地で検出される高濃度の放射能は、いまやこの国が「放射能まみれ」になっていることを我々に突き付けている。 いったい僕らはどの面さげて「起き上がってくる死者たち」こ向き合おうというのか。 死者たちの怨念地を這う沖縄忌 ――森口豁 ■5月20日(金) 那覇 曇り 南風原町の画廊沖縄に国吉和夫の写真展「命――war」を見に行く。沖縄の基地の中ではどのような訓練が行なわれているのか。国吉の写真は人間が殺人マシーンに作り替えられていくようすを見事にとらえている。画廊のオーナー上原誠勇さんは今年のテーマを「命」とし、国吉の写真展に「もう終わりにしようじゃないか」と名付けた。戦争という名の人と人の殺し合いを「もう終わらせようじゃないか」と。 ■5月21日(土) 晴れ 〈らい〉に対する世間の誤解や偏見をなくすためのシンポジウムが、全国各地から関係者が集まり沖縄でひらかれている。1960年、伊是名島のでの〈らい老女〉との遭遇以来、無関心ではいられない「らい問題」。自分の中に差別や偏見は潜んではいないか―。シンポジウムで明らかにされる「痛苦の体験」などを通して自己検証をしようと名護市民開館へクルマを飛ばす。 浜をなでる東シナ海の穏やかな潮騒は、果たして館に集う「受難びと」たちの心身をどこまで癒してくれたであろうか。 ■5月23日(月) 晴れ しばらくぶりに読谷村に彫刻家の金城実さんを訪ねる。10年がかりで仕上げた100㍍レリーフが、アトリエに隣接する広場に居場所を得て、眩い陽光の下で「沖縄の怒りと悲しみ」主張している。 レリーフには沖縄戦で不条理な死を強いられた幾多の命が描かれている。いまはまさに「死者たちの起き上がる」季節。海風が死者たちの朽ちた身体をなでる。 ■5月25日(水) 那覇 曇り/関東 晴れ 昼過ぎ、那覇発成田空港行きANA機で沖縄を離れる。今年の梅雨は陽性型。滞在中は幾度となくどしゃ降りの雨にたたられた。この半月で太陽を見たのは2日だけ。そんな日は溜まった洗濯物の片付け胸を踊らせたものだ。 ■6月1日(水) 関東 晴れ 「近田洋一追悼・月桃忌の会」主催の写真展『変わらぬ基地 続く苦悩/ジャーナリスト近田洋一が生きた時代』初日。朝9時から飾り付けを終え、向こう5日間の会期の幕を開けた。米軍政下の沖縄の庶民の姿をとらえた一連の写真をヤマトで展示するのは今回が初めて。 この催しには、東大名誉教授で教育学者の大田堯氏や立教大名誉教授の門奈直樹氏、ジャーナリストで琉球新報前社長の高嶺朝一氏ら各界の著名人が呼びかけ人に。また地元埼玉や東京、沖縄のやジャーナリスト、それに日頃から「沖縄」に関心を寄せる市民ら120人が賛同人として名を連ね、賛同費を出し合って開催にこぎつけた。 会場ではテレビ局在職中に作ったドキュメンタリー『東京に原発がやって来る!?』(1981年放送)を常時上映。来場者の足を釘付けにした。多くの人が放射能の恐怖を現実のものとしているいま、原発への関心はきわめて高い。 6月5日(日) 晴れ 写真展『変わらぬ基地 続く苦悩』最終日のきょうはあさから客足が絶えず、午後3時のビデオ&トークの時間が近付くと展示会場は人人人であふれた。 上映作品は『毒ガスは去ったが…』(1971年放送)と『空白の戦史 沖縄住民虐殺35年』(1980年放送)の2本。『毒ガス―』には近田夫妻が登場。『空白の―』は日本兵による住民虐殺場面のイラストを近田が描いた。今回の催しにはふさわしい作品だ。 ■6月8日(水) 曇り のち 晴れ 那覇市の「やちむん博物館」にかねてから寄贈を申し入れていた故新垣栄三郎の厨子甕を引き取るため、同博物館主任学芸員の倉成多郎氏が来宅した。 寄贈した厨子甕は壺屋の3名工の一人、新垣栄三郎が僕の求めに応えて1961年に作ってくれたもの。早逝した僕の弟のために特注した厨子甕だが、使われないまま「美術品」として我が家の飾り棚に。幸い今回の地震でも損壊をまぬかれ、無事博物館入りとなった。これで文字通り枕を高くして眠れそう。 # by Moriguchi_Katsu | 2011-06-12 17:08
![]() ![]() 【写真】 ㊤窓辺の情景 部屋に明かりが燈るころになると、ガラス窓に張り付いて窓辺に寄って来る虫たちの退治に精をだしてくれるリュウキュウヤモリ。時には室内に忍び込み蛾や蠅を追い回す。キョッ キョッ キョッ キョッ…、泣き声が愛らしい。今やすっかり僕の「良き隣人」だ。こういう「隣人」なら文句なく共生OKだ。 ㊦ここは那覇の隣り町・西原町の古い集落。時折上空をよぎる米軍機の爆音は並みではないが、そのとき以外は終日野鳥のさえずりが絶えることのない、時の流れから取り残されたような集落だ。 いまは月桃(サンニン)とテッポウユリが花盛り。露香にぬれた花弁が発する妖艶な香りが村を優しく包む。庭先の木立ちは山鳩の棲家になっているらしく、朝となく夕となく、調子外れの鳴き声を飽かずに披露してくれる。梅雨どきというのに、ウグイスのさえずりもにきやかだ。電線にはズズメや渡り鳥のシロガシラが仲良く並んで羽を休めている。街の騒音から解放された至福の時間。あすにも東日本を揺るがしそうな「大きな余震」と放射能の恐怖から遠ざかっていられる安心感がありがたい。 ■5月10日(火) 那覇 曇り ちょうど1ヶ月ぶりの沖縄入り。連休明けの沖縄は、祭りの後のような静けさ。もう雨期に入っていて、来月の「慰霊の日」前後まで向こう40日間は蒸し暑さがつづく。 今回の沖縄入りの主目的は、6月に埼玉で開催する写真展『変わらぬ基地 続く苦悩/ジャーナリスト近田洋一が生きた時代』(6月1日〜5日迄、JR浦和駅前パルコ9階。主催「近田洋一追悼・月桃忌の会」) に出展する写真の仕上げ。会場が狭いのと大型写真の搬送には経費がかさむので、何点かを除いてはA2サイズ(新聞1ページ大)の紙焼きにした。このサイズならダンボール1箱に収まるので移動は簡便だ。 滞在中に、催しの賛同人になってくれるよう友人知人に広く呼びかけも…。賛同費として1000円のカンパを乞う。この種の催しは志を同じくする者たちが力を合わせることが大事だ。どこまで裾野を広げられるか、近田洋一と森口豁の吸引力が試される。 ■5月12日(木)〜18日(水) 雨期 大雨の日多し ・12日 沖縄タイムスカメラマンの大城弘明さんに頼んでおいた展示用写真のブリントを引き取りに、おもろまちの沖縄タイムス社へ。新たな追加分も含め31点。あとは業者の手によるパネル張りと、キャプションの仕上げ。 その足で県立美術館で開催中の国吉清尚陶芸展へ。若くして焼身自殺した「炎の陶芸家」国吉の力作を堪能。気をもらう。 ・14日(土) 曇り 宜野湾市の佐喜真美術館に韓国の版画家イ・ユニョプの版画展『ここに人がいる』を見に行く。 イ・ユニョプは68年韓国・京畿道水原生まれの若い版画家。米軍基地建設に反対するテチュリ(大秋里)村など、闘いの現場に住みつき、民衆と苦楽を共にしながらたくさんの壁画や版画などを手掛けた。壁一杯に所狭しと貼られた民衆と、彼らに襲いかかる公権力の姿は、基地と闘い続ける沖縄にそのまま重なる。 きょうは本人を交えてシンポジウムがあったが、体調がすぐれなかったのでギャラリートークのみで切り上げた。クルマの運転もおぼつかないほどの悪コンディション。 それにしてもここ数日の体の具合は尋常ではない。しつこい腰痛と全身のだるさ。加えて背中の筋肉の痛みや血糖値の異常な高さも大いに気になる。早々と内蔵の精密検査をした方がよさそうだ。血糖値ひとつとっても即入院と言われかねない数値だ。そんなにいい加減な食生活をしているわけではないのに…。 ■5月19日(木) 曇り きょう「5月19日」という日は、僕らのような「復帰前世代」にはさまざまな事柄が記憶にしみついた忘れ得ぬ日だ。 40年前のきょう、日米両政府間で進む沖縄返還協定を粉砕するゼネストが行なわれ、10万人が参加する「県民総決起大会」が那覇市内で開かれた。基地は要らないとう沖縄と、復帰後も「基地の自由使用」を確保したいと画策する日米両政府。以降40年、いまもつづく基地の「使いたい放題」はこのときに始まった。次々と明らかになる日米密約がそれを裏付けている。「核抜き本土並み返還」などはまったくの絵空事!。 それより3年前の1968年の「5・19」は、米原潜の垂れ流す放射能で那覇港を汚染。住民に衝撃を与えた日。あの頃僕はヒマさえあれば那覇港で釣糸をたれ、チヌ釣りを楽しんでいた。もちろん釣果はその都度我が家の食卓に上った。もちろん僕だけではない。埠頭にはいつもたくさんの釣人がいた。知らぬが仏、とは恐ろしいことだ。 さらにその2年前の66年の5月19日は、嘉手納基地近くを走っていたクルマに、離陸に失敗した米軍機が墜落。クルマを運転していた男性が焼死した日。たしか鹿児島出身の商社マンだった。墜落しのは航空燃料を満載したKC135型空中給油機。男性の体は墨のように炭化していた。 暦は反転、2002年の5月19日。この日、政府と沖縄県共催の「沖縄復帰30周年記念式典」が、3権の長や各国大使ら1000人が参加して宜野湾市で開かれた。内実の伴わない「復帰」。そうであればあるほど、権力は盛大な祭りを催して偽りを糊塗するのが常だ。ちなみにこのときの政権党は自民党。沖縄県知事も自民党が押し立てた経済界人だった。 そんな「5・19」だが、20年前の1991年のきょうは、反逆の人、竹中労の命日でもある。この日にちなんで那覇市泉崎の琉球新報ホールでは、沖縄民謡界の雄たちによる「追悼唄会」が開かれた。大工哲弘、大城美佐子、嘉手苅林次、知名定男ら錚錚たる歌い手たちが次々と舞台に立ち、沖縄民謡をこよなく愛し、同時に琉球の独立を夢見た竹中労を偲び、持ち歌を捧げた。 ホールを埋めた400人の竹中ファンは泡盛やオリオンビールを手に島唄を聞きながら故人を偲んだ。 竹中は「復帰」を間近に控えて世情騒然とする60年代末期に沖縄にやってきた。シンポジウムで若者を挑発、啖呵を切って意気がる、やくざな風体の愛すべき男。後に彼が著した『琉歌幻視行』や『琉球共和国』(共に三一書房刊)をむさぼり読んだ日々がよみがえる。竹中の思想は間違いなく沖縄に根付いている。久しぶりで聴くナマの唄に酔った。 帰路、この唄会に間に合わせて来沖した小説家の木村紅美さんとしばらくぶりで泡盛を飲む。彼女は3年前の明治大学での僕の連続講座の熱心な聴講生。あすからは鳩間島へ行くという。僕の定宿「まるだい」に電話、宿泊の予約をしてあげる。 ケータイが鳴ったので開いてみると、知名定男さんから。その足で彼の待つ居酒屋へ。彼とゆっくり杯を交すのは何年ぶりだろう。話が弾み、時計の針は午前零時を大きく突き抜けての午前様。良き友と飲む酒はうまい。 ![]() 手繰り寄せ続けた「希望」 別れの日、柩に眠る友、近田洋一さんに手作りの小さなスケッチブックを贈った。好きだった絵を、いつでも好きなときに描けるように、と。 沖縄の公立高校を卒業し、18歳で琉球新報記者になった彼は、今年春、33年間勤めた埼玉新聞を退職するまで、実に50年余の歳月をジャーナリズムの現場に身をおき、この国の果てしない矛盾と向き合ってきた。民衆をまなざその瞳は山羊のように優しく、権力へ向けられる眼光は妥協を許さぬ鋭さに満ちていた。女性や子ども、障害者、「在日」など社会から軽んじられ疎外された者たちとの強い結びつきの中で、地を這う虫の目線で真理を掘り起こす彼の仕事の質の高さは、誰よりも本紙(埼玉新聞)の読者が知ることだろう。 でも、本人が本当にやりたかった仕事は新聞記者だったのだろうか。ちがう。彼は絵描きになりたかったのだ。 並みの力量ではない。寸暇を惜しんで描いた絵は趣味の域をはるかに超えていたし、この30年間、年初と夏の盛りに欠かさず送ってくれた自筆の絵はがきは、自然や海山の生類たちや人の命にこだましあって生きる「近田ワールド」を彷彿とさせた。 「画家への志」が揺らぎ、記者として終生「現実」と向き合い続ける決意を固めたのは、琉球新報に入社して2年目の夏だった。沖縄を悲しみと怒りの淵に陥れた小学校への米軍機墜落事件。死者17人と210人のけが人を出したこの事件の取材を一緒に進めて間もなく、彼は僕にこうつぶやいた。 「やっぱり、この仕事やめられないよ、豁ちゃん。自分だけ好きなことやるわけにはいかないからね」 大やけどを負った子どもたちの中に「世界一のヴァイオリニスト」を夢見ていた少女がいた。火だるまのジェット機がその少女の片腕の自由と「夢」を奪った。少女の無念な思いを自分のものとするには新聞記者という職業を通して闘うしかない。平和の問題にことのほか熱心だった理由も同じだろう。 新聞社会の仕事から解放され、ペンを絵筆に持ち替えわずか2ヶ月余。「これからは好きな絵に専念できる」と喜んで話したその「趣味の絵」とて、近年はイラクやアフガン、そして基地建設で揺れる沖縄・辺野古に材をとったものが増えていた。でも、どんな絶望の中にあっても希望を見出だそうと心血を注いだ。言葉に、文章に、そして絵筆に、丁寧に丁寧に手繰り寄せたその希望が、周囲の者を励ました。 戦争、貧困、差別…。果てしなく続く絶望の中で、命の貴さを訴え続けたこの人の「不在の存在」のあまりの大きさに、僕はたじろぐ。 (2008年7月4日、埼玉新聞「追悼メモリアル」より)。 ■近田洋一略歴 1938年、山形県出身の父と沖縄県出身の母の長男として、当時内南洋といわれたサイパン諸島ロタ島で生まれる。沖縄・石川高校卒業後、琉球新報記者となり、社会部や経済担当記者として活躍した。 沖縄「復帰」後の1974年、琉球新報を退職。翌75年埼玉新聞に入社。以降、社会部長、編集局次長、論説委員室長などを務める。80年〜84年まで100回にわたり長期連載したルポルタージュ「駅と車椅子」は、駅の橋上化に反対する障害者たちの日常を通して、近代化の在り方に迫り、JCJ日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞した。2008年6月12日、埼玉県内の団地で孤独死。享年69。
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